(9)日本の囲碁界




「囲碁エッセイ」(9)

「日本の囲碁界」 
  
                        (執筆者:小山敏夫)   
                                                                      
                                                                        










写真は202015日(囲碁の日)・日本棋院関西総本部(梅田)

「囲碁エッセイ(8)」で、トップ棋士たちのタイトル戦の周辺を一覧表にして書きましたが、今回は、日本棋院と関西棋院を中心とした日本の囲碁界を覗いてみたいと思います。

 日本囲碁界の中心には、2011年に公益財団法人として認可された日本棋院(東京本部)があり、その下に、一つは中部総本部(中部地区と三重県を統轄)があり、羽根直樹、羽根泰正、山城宏棋士など40数名が所属している。中部総本部の独自のタイトル戦として王冠戦がある。もう一つは関西総本部(近畿地区、広島、岡山両県の支部を統轄)で、井山裕太、山田規三生棋士や、我らの師佐坂志郎棋士などが所属しています。また、後で触れるように、大阪には別組織の関西棋院があります。
 
 先ず日本棋院についてですが、設立は大正末期の1924年7月17日。本部は、東京都千代田区にあり、現在の理事長は小林覚棋士。目的とするところは、「棋道の継承発展及び内外への普及振興を図るとともに、棋士の健全な育成を行い、囲碁を通して文化の向上に資すること」となっています。本部所属の棋士は約300人ということ。 
 囲碁や本因坊戦の歴史については、「エッセイ6」の「本因坊・寂光寺」で少し触れましたが、いま少し詳しく日本棋院や囲碁の歴史について主にネット上の資料を参考にしながら書いてみます。
 
 日本の囲碁は、江戸時代末期の御城碁の廃止から、明治時代の東京府庁の家元4家(本因坊、安井、井上、林)に対する厳しい政策によって次第に衰退していきます。そして最後に残ったのが本因坊家でしたが、幕府というパトロンを失い、さらには文明開化を標榜する明治維新の冷たい姿勢に、しばらく棋士たちは離合集散を繰り返し、囲碁界は混沌とした情勢に陥ったようです。しかし囲碁を愛する人たちは消えることはなく、1879年(明治12年)に、村瀬秀甫が、史上初の近代的なプロ棋士の団体である方円社を設立します。そこでは、封建的な風習を墨守する家元の本因坊家と方円社の並存状態が長年続きます。しかし、1923年(大正12年)の関東大震災を機に、棋士たちの大同団結の機運が高まり、翌1924年(大正13年)、大倉喜七郎を後援者として、本因坊秀哉以下の坊門の棋士や方円社などほとんどの棋士が集結し、日本棋院が設立されることになります。1946年には、日本棋院の関西別院は、関西総本部と改称。
 
 この動きに対して、1947年(昭和22年)に、坂田栄男、梶原武雄ら8棋士が「囲碁新社」を旗揚げしますが、2年後1949年(昭和24年)復帰します。一方、後で述べるように、1950年(昭和25年)、今度は当時本因坊の座にあった橋本宇太郎を旗頭に関西棋院が設立され、橋本は、翌年の本因坊戦で坂田の挑戦を1勝3敗から3連勝、大逆転でタイトルを防衛して、関西棋院の独立を守り、その後も日本棋院との関係は分離したままとなっています。
 
 両院は好敵手として、1950年(昭和25年)には日本棋院と関西棋院の12人ずつの選手による東西対抗戦(東軍の7勝5敗)、及び東西対抗勝ち抜き戦(梶原武雄優勝)が行われ人気を博しました。しかし両者には溝もでき、1950年第5期本因坊戦で橋本宇太郎が本因坊位を獲得した際、その就位式席上で日本棋院津島寿一総裁が、これまで2年で1期だった本因坊戦を1年1期に改める方針を打ち出します。これが本因坊当人に相談もなく決められたことで、関西棋院の内部に独立派が生まれて、協調派と分かれます。多数となった独立派は、同年9月に免状発行権を持った組織として独立を宣言します。一方、協調派の棋士は、細川千仞中心にして、日本棋院関西総本部を再設立することになります。 
 
 分離行動の大きな理由のもう一つには財政問題にあったよう。1947年(昭和22年)に、空襲で焼けた日本棋院会館の復興のために全棋士による募金活動が行われ、関西には計50万円の目標が課せられます。しかし関西でも資金が必要であることから、募金の半分を東京に送るという前提で募金を行ったということです。そして、集まった募金額は100万円となり、その使途を巡って意見百出。結局、全額を関西で使おうという意見が棋士や後援者間で強まり、関西の会館の建物を買い、財団法人関西棋院として財務上でも独立した組織となったということです。
 
 こうして1950年に、当時本因坊の座にあった橋本宇太郎を旗頭に日本棋院から分離独立して、大阪市中央区北浜に本拠地をおき、近畿を中心として棋戦や囲碁普及などの活動を行う組織、関西棋院が生まれたわけです。2012年4月1日、法人制度改革に伴い、公益法人より活動の制約が少ない一般財団法人となり、2019年現在、138人の棋士が所属しているということです。
 
 関西棋院がもっとも盛り上がったのは、橋本宇太郎と橋本昌二の「両橋本」(両者に血縁関係はない)が関西棋院の二枚看板となった時代でしょうが、本因坊位の後、十段・王座のタイトルを奪うなど華々しい活躍ぶりでした。その次の世代で、筆者に馴染みのある棋士には、坂井秀至(2010年、坂井秀至が碁聖のタイトルを奪取)、また、これに続いて天元位を獲得した結城聡、若手の瀬戸大樹・村川大介棋士たちがいます。2012年の第68期本因坊リーグは8名中3名(32期ぶり)、2013年の第38期名人戦リーグも9名中3名を関西棋院勢が占めています。
 
 ただ、所属棋士が各種タイトル戦に参加する場合にはいろいろ制約があります。まず3段階(ABC方式)の院内予選を行ない、その勝者が日本棋院所属棋士と混合の最終予選に出場することが多い。また、本因坊戦最終予選の参加枠は4人(日本棋院の7分の1)に限られ、竜星戦・阿含桐山杯・NECカップ囲碁トーナメント戦についても出場制限が課されています。一方で、関西棋院独自の棋戦として、関西棋院第1位決定戦と産経プロアマトーナメント戦があります。
 日本棋院と関西棋院の間では、いく度か再統合の話も出ているようですが、段位の調整や財政問題などがネックとなって平行状態が続いており、この日本国内の棋院の分裂構造は、日本将棋連盟が関東・関西・中部と一枚岩なのと比べきわめて対照的となっています。 
 
 これが現在の日本囲碁界のおおよその構図ですが、日本棋院は、世界囲碁界の中でも重要な地位を占めてきました。しかし、1990年代以降赤字財政が続いている他、囲碁人口の減少(『レジャー白書』で調査方法の切り替わった2009年の囲碁愛好者は約640万人だったのに対し2017年は190万人、但し2018年は210万人)、国際棋戦における日本棋士の不振など、問題山積が現状というところでしょうか。 
 
 「囲碁エッセイ」(2)で、1990年代の半ばまで世界を席巻していた日本の囲碁が、急成長した韓国に追い越され、その後、国家をあげて囲碁に力を注いだ中国にもリードを奪われている現状に触れましたが、最後に触れるように手をこまぬいているわけではありません。
 
 さて以上が日本棋院と関西棋院を中心とした日本囲碁界の現状ですが、500人にのぼる棋士たちの誕生の経緯を少し考えてみたいと思います。
 現在、東京本院では、小学生から17歳の制限までの院生約80人がプロになる為の研鑽を積んでいます。日本棋院が採用するプロ棋士は毎年6名ということですが、まずプロ棋士になるには、公益財団法人日本棋院の「院生」になるか、外来として日本棋院の棋士採用試験を受ける必要があります。院生の審査は14歳(中学2年在学中)までの年齢制限があり、外来として試験を受ける際にも23歳未満の制限があります。
 
 プロ試験に合格すると、プロ初段となり、プロ棋士として対局をしてお金をもらうことができるようになり、成績によって段が上がっていきます。タイトル獲得・勝数・賞金ランキングによる昇段制度があり、段位が上がることで収入も増えるシステムです。
 
 日本棋院の棋士採用の種別には「正棋士」・「女流特別採用棋士」・「女流特別採用推薦棋士」・「外国籍特別採用棋士」・「英才特別採用推薦棋士」などがありますが、プロ試験は、夏季棋士採用試験と冬期棋士採用試験があり、採用資格や条件面で細かい取り決めがあります。また関西総本部や中部総本部で、採用方法に微妙な違いがある部分があるようですが省略します。
 
 一方関西棋院は、プロ採用面で、独自な制度を設けています。一つは、関西棋院では院生研修を級制度で行っており、普段の研修手合いはハンディ戦です。この研修手合いで初段格になり、初段格で12勝4敗を達した月にプロ合格となります。
 
 また一般の成人にも道が開けており、男性は満26歳未満、女性は満30歳未満で、過去の様々なアマチュアの大会の戦績によって応募資格があり、坂井秀至棋士などはそのコースでプロになった棋士です。その他にも細かい採用ルールがあるようですがこれも省略します。
 
 また、女性限定のプロ試験の女流棋士採用試験があり、女流への道も用意してありますが、最後に、英才特別採用推薦棋士について触れておきます。
 先ほど触れたように、日本の囲碁界が国際棋戦で中国や韓国に後れを取るなか、国際棋戦での活躍を期待できる棋士を養成するため、「英才特別採用推薦棋士」という制度が2019年度(平成31年度)より導入されています。日本棋院棋士採用規定では、その目的を「我が国の伝統文化である棋道の継承発展、内外への普及振興」であるとし、採用の対象となる者については「囲碁世界戦で優勝するなど、目標達成のために棋戦に参加し、最高レベルの教育・訓練を受けることが出来る者」としています。
 
 採用の年齢は小学生を原則とし、日本棋院の棋士2名以上の推薦がある者が採用の候補となる。候補者の実績や将来性を評価し、日本棋院の現役7大タイトル保持者及びナショナルチームの監督・コーチのうち3分の2以上の賛成を得たうえで、審査会及び常務理事会を経て採用を決定するというもの。この英才特別採用推薦棋士制度により、2019年には仲邑菫さんが日本棋院史上最年少(10歳0か月)で入段を果たし、目下活躍中であることはみなさんご存知のことと思います。


(1)囲碁の歴史と用語
(2)囲碁の神髄は調和にあり
(3)吉備真備と安倍仲麻呂
(4)吉備真備の後日談
(5)真岡子規と囲碁
(6)囲碁のパワースポット 寂光寺
(7)碁のうた 碁のこころ
(8)しのぎを削るトップ棋士たち

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