(6)囲碁のパワースポット寂光寺を訪ねて


「囲碁エッセイ」(6)

「囲碁のパワースポット寂光寺を訪ねて」
  (執筆者:小山敏夫)

             
  遅まきながら、京都の名刹寂光寺(じゃっこうじ)(顕本法華宗の本山)を訪れました。この寺は、本因坊元祖の算砂(さんさ・さんしゃ)上人(1559-1623・寺の2代目の上人で僧名は日海)がいた寺で、平安神宮の西方すぐ、東大路通と仁王門通の交差点を西に入ったところに位置しています(京阪三条駅から10分程度)。新祠学区寺院案内図を見ると、この界隈には55もの寺が密集しており、あらゆる宗派が共存している驚くべき寺街風景です。それは、江戸時代の宝永5年(1708)の大火の類焼で移った寺が多く、この寂光寺も焼失し、現在の地に移転して再建されたものです。釈尊を本仏とし、宗祖・日蓮大聖人の表した十界互具の曼荼羅を本尊としています。

  「囲碁エッセイ」(5で、正岡子規の囲碁殿堂(2004年に日本棋院創立80周年を記念して創設)入りのことに触れていますが、その第1回の殿堂入りの一人が、この第一世本因坊算砂です。碁と将棋のナンバーワンとして、特に囲碁では、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康・秀忠らに仕えています( 『坐隠談叢』という書によると、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ともに算砂に対し五子の手合割であったということですが、相当忖度した書き方と思えます)。まさに算砂は、棋士の地位向上に尽力した歴史上の巨人で、技術面でも算砂の時代にわが国の碁は大発展をとげ、幕府の庇護のもと、隆盛に向かったわけです。
 さて、74期本因坊戦では、井山裕太23代永世本因坊(文裕)と、挑戦者河野臨との7番勝負が争われ、井山が42敗で8連覇を達成しましたが、寺でも、かつて、山下本因坊と、井山本因坊との、67期の本因坊戦の第一局(2012515日)がうたれ、今も写真のように、その碁符が残されています。

また、それに先だつ514日に、初代本因坊上人就任400年の法要が営まれ、歴代の本因坊が参列しており、その写真も飾ってあります。さらに、15日の本因坊戦の立会人が林海峯(二人目の本因坊名人)で、彼は、少年時代この寺に寄宿していたというまさに囲碁のメッカみたいなところです。
 因みに「本因坊」の「本院」とは、釈迦が説いた教えのことで、「院」は、本山のうちの一つの寺(塔頭)をさします。また、かつては、囲碁の家元には、本因坊、安井、井上、林の4家がありましたが、江戸時代末期の御城碁の廃止から、明治時代の東京府庁の家元4家に対する厳しい政策によって次第に衰退していき、最後に残ったのが本因坊家です。(岡田准一が演じる、安井家の安井算哲を主人公にした映画『天地明察』では、4代将軍徳川家綱を前にして、本因坊道策と天覧碁を演じ、算哲が、決まりの約束を破って、初手を天元に打って皆を驚嘆させる場面があります。ただ、算哲は、父の死後二代目「安井算哲」を襲名しながら、神道や算術、天文といった学問に傾倒していき、幕府から改暦を命じられて、「時(暦)」を支配する公家(天皇)に対抗する改暦の大事業に携わります。)
 
 この寂光寺に入ると、初めに目につくのが、「第一世本因坊報恩塔」という石碑で、さらに墓地に入ると、初代算砂と歴代本因坊の墓石があります(冒頭写真)。この墓石群に象徴されるように、算砂以来の家元制による本因坊家が、長い間囲碁の世界を支配してきたわけですが、この世襲制が途切れたのが、21世の本因坊秀哉(1874-1940)の時です。秀哉は、家制度を廃して、一般の人に碁を普及させるべく、1939年に引退碁をうちます。そして、毎日新聞の前身の東京日日新聞(学芸部長阿部慎之助)が、19396月に、秀哉引退の名跡を競う選手権戦を企画し、それが現在の本因坊戦につながっているわけです。

 一方この流れは、将棋の名人戦とも深く関わっています。将棋のほうも、東京日日新聞の阿部慎之助が中心となり、囲碁と同時に、家元制度を廃して、新時代にふさわしい選手権制による名人戦を1934年に企画します。阿部は、囲碁と将棋の名人戦を同時に企画し、まず、将棋連盟会長の金易次郎が、翌19353月、将棋名人戦創設を告げる声明書を発表します。そして、13世名人関根金次郎の引退声明のあと、同年から将棋の名人戦がスタートすることになります。
 
 しかし、囲碁のほうは、いろいろ話し合いが長引き、最後に、秀哉名人の本因坊の名跡を残したいという強い意向をくんで、将棋に遅れること4年にして本因坊戦が始まります。従って、本因坊という名前は、1604年、算砂が、徳川家康の招きで江戸に赴き、「本因坊家」を創建した時から始まっており、400年以上の歴史を持っていることになりますが、他の6冠(棋聖・碁聖・天元・名人・王座・十段)は、1940年以降、新しく出発した本因坊戦と同じような歴史を辿ることになります。将棋も同じような経緯を辿っているわけで、現在、井山名人と羽生名人の両雄が時を同じくして頑張っているというのも偶然でしょうか。

 さて、もう少しこの本因坊算砂と寂光寺について触れておきますと、まず寺の開祖となる日淵上人が、天正6年(1578)、室町近衛に久遠院を建立したことに端を発し、その後、天正18年(1590)に、豊臣秀吉の命により、京極二条に寺を遷し、空中山寂光寺と称します。そして日淵は、弟子の教育に力を注ぎ、名僧・日海(算砂)たちを輩出し法華宗の発展に大きく寄与することとなります。
 2代目の日海は、塔頭の本因坊に住み、後に本因坊算砂と号します。当時、碁技に優れ、敵手無く、織田信長から名人と称揚されたということです。以降、本因坊の名称は碁界家元の地位を保ち、襲名継承されることになります。天正16年(1588)に豊臣秀吉御前で、算砂、利玄など数名の碁打衆が召し出されて対局し、これに算砂が勝ち抜いて2010人扶持を与えられています。
 
 さらに、先ほど触れましたように、慶長8年(1603)、徳川家康が江戸に幕府を開くと、家康に招かれて一時江戸に赴き、翌年(46歳)に、「本因坊家」を創建して本因坊算砂と名乗ることになるわけです。算砂は「碁所・将棋所」に任ぜられ、慶長13年(1608)には、大橋宗桂と将棋対局して、その将棋最古の棋譜が残されています。慶長16年(1611)に僧侶としての最高位の「法印」に叙せられ、慶長17年(1612)には、幕府より算砂を初めとする碁打ち衆、将棋衆の8名に俸禄が与えらます。
 
 算砂は、利玄、宗桂とともに5010人扶持とされ、そのとき、将棋所を大橋宗桂に譲ったとされています。そして、元和9年(1623516日、後継の算悦の後見を弟子の中村道碩に託して江戸で死去し、この京都寂光寺に埋葬されます。

そして辞世のうたは我が身に染みます。

 碁なりせば 劫(コウ)など打ちて 生くべきに 死ぬるばかりは 手もなかりけり

 ああ、「法印」と「名人」を両立させる本因坊算砂とは、なんたる名僧であったかと、いまさらに感じ入り、囲碁の持つ摩訶不思議な力に驚くばかりです(先ほど触れた映画『天地明察』で、算哲をさして、「たかが碁うち、されど碁うち」と重臣が言いますが、頷けます)。それにつけても、繰り返しになりますが、もう少し御利益があってもいいのでは思うのですが、こればかりはうまくいきません。まだまだ精進が足りないのでしょうか。

 棋道上達ねがひ算砂の墓拝む(修岳)
 
案内して説明してくださる副住職もかなり囲碁に詳しく、機会があれば一度は訪れる価値があり、半目程度は間違いなく上がる御利益がありそうです。

0 件のコメント: