(4)囲碁と吉備真備の後日談


囲碁エッセイ(4

「囲碁と吉備真備の後日談」
                 (執筆者:小山敏夫)





「囲碁エッセイ」(3)で、「吉備大臣入唐絵巻」に描かれている囲碁のエピソードのことを書きましたが、引き続き、先日訪れた、真備ゆかりの御厨子(みずし)観音妙法寺と、その真備と深い関わりのある鑑真和上の物語です。
 御厨子観音妙法寺は、 奈良の春日神社に隣接する万葉の森の外れにありますが、真備が、入唐留学(第1回目)によって学芸を修めるとともに、唐から無事に日本に帰ることができたことに感謝し、735年(天平7年)に善覚律師(真備の子)に命じて創建させた観音堂です。
 


 真備は、西暦716(霊亀2)、朝廷から遣唐使の一員に選ばれ、阿倍仲麻呂、玄昉らと共に入唐留学しますが、その年に彼は、日頃信仰していた観音様にご加護を祈り、「唐で学芸を修め、無事日本に戻ってくることができたなら、自分の領地に先祖の霊を祭る建物を造り、仏恩に報います」と誓っています。
 
 現在のお堂は、元禄時代に、当観音を信仰する人々によって、焼け残った資材を集めて再建されたものですが、真備が書いた「大般若経」は、現在も奈良国立博物館に保管されています。また、この寺に隣接して、「ぼけよけ地蔵尊」が祀られており、奈良、和歌山、大阪に広がる「ぼけよけ24地蔵尊霊場」の第14番目の霊場となっています。


 それではまず、母国の土を踏む寸前に暴風に遭って帰国が叶わず、

「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」

と、望郷の念を詠った阿倍仲麻呂と、同じ遣唐使の真備、そして、鑑真という3人の関わりとその後の数奇な運命を辿ってみます。
 
 ただ残念なのは、日本は10数回の遣隋使や遣唐使を派遣していますが、具体的な遣唐使として歴史に名前が残っているのは、数名の僧侶や、阿倍仲麻呂と吉備真備ら数名の遣唐使だけです。もっとも、正倉院(光明皇后が、亡き聖武天皇の冥福を祈念して,遺愛品など六百数十点と、薬物60種を東大寺の本尊盧舎那仏に奉献した品々や、後に加えられた宝物を収納。その中に、わが国最古の碁盤「木画紫檀棊局」が納められている)にその貴重な痕跡はありますが、人物や文物の交流が盛んだったことを考えると、その歴史的記録の少なさに驚きます。

 鑑真に関しては、「東征伝絵巻(5巻)」(重文)や、鑑真の伝記『唐大和上東征伝』などの記録が残され、日本への航跡を詳しく辿ることができますが、仲麻呂と真備のことや、この3人の詳しい関係はよくわかりません。ただ、いろいろなことを照合すると、753年(天平勝宝5年)、2人は、6回目でやっと成就した鑑真の渡日の船に乗っていたものを考えられます。
 
 まず鑑真の日本招請の経緯からですが、直接のきっかけは、仏教伝来とその後の東大寺建立です。当時の日本において、政治と宗教の結びつきには根強いものがあり、唐より最新の文化を吸収することは国策の一つであったわけですが、その中でも特に重要視されていたのが高僧の招聘です。真備2回目の遣唐使派遣には、 鑑真の招聘が任務として課されていました。さらに、733年、栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)という2人の僧侶が、ある重大な使命をもって16年ぶりの 第10次遣唐使船に乗り、唐へ向かって出航しています。
 
 742年、この2人の日本人僧侶は、揚州の大明寺の住職であった高僧鑑真に、当時の日本の仏教の実情を説明し、戒律を日本へ伝えるよう強く懇請します。奈良には私度僧(自らが出家を宣言した僧侶)が多かったため、伝戒師(僧侶に位を与える人)制度を普及させるべく、聖武天皇は適当な僧侶を中国に捜していたわけです。
 
 懇願された鑑真は、最初弟子を派遣するつもりでしたが、行こうとする者がなく、自ら渡日の決心をして、弟子21人も随行することになります。しかし、決心以来10数年間にわたってさまざまな渡日を試みますが、5回とも、禁足令や逮捕、また暴風に阻まれことごとく失敗に終わります。
 
 特に5回目の挑戦では、嵐に遭遇してはるか中国大陸の南端、海南島まで流され、再度渡日のため、故郷の揚州に向けて北上中、同行の留学僧・栄叡を失い、両眼を失明しながらの苦行の連続です。
 
 753年に6回目の渡日が決行されますが、今度は条件が整っており、前年に遣唐使の乗った4隻の遣唐使船が明州の港に寄港していました。そして遣唐使には、遣唐使幹部の遣唐大使の藤原清河と、遣唐副使の大伴宿禰古麻呂がおり、さらに、18年にも及ぶ唐での生活を評価されてか、真備も加わっていました。
 
 そして753年(天平勝宝5年)、遣唐大使の藤原清河ら鑑真渡日の画策をしますが、初めは明州当局の知るところとなり、鑑真は清河の船に同乗できず。しかしそれを聞いた遣唐副使の大伴古麻呂は、清河に内密に第二船に鑑真を乗せます。そして、11164舟が同時に出航して、第1船と第2船は1221日に阿児奈波嶋(現在の沖縄本島)に到着。第3船はすでに前日20日に到着していましたが、第4船は不明。
 
 沖縄に到着した3舟は、多禰嶋(国)(現在の種子島)に向けて出航します。ところが、運の悪いことに、出港直後に大使・藤原清河と阿倍仲麻呂の乗った第1船は、岩に乗り上げ座礁し、その後ベトナム北部に漂着して、結局一行は唐に舞い戻るという数奇な運命をたどることになります。仲麻呂にとっては、40年近く唐に滞在し、やっと故郷の地を踏めると思った寸前の災難です。

 一方、日本の地を踏んだ真備と鑑真はそれぞれの任務を存分に発揮します。
 鑑真は、天平勝宝624日に平城京に到着して聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に居住することになります。そして4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授け、これが日本の登壇授戒の嚆矢となります。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立され、その後、天平宝字5年には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていきます。
 
 鑑真は、76歳までの10年間のうち5年を東大寺で、残りの5年を唐招提寺で過ごして、座したまま静かに大往生したと伝えられています。

 真備の方は、囲碁も日本に伝えた一人ですが、経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などを幅広く学んでの帰国で、奈良の都で重宝され、多方面で活躍します。天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱では、緊急に従三位に昇叙され、中衛大将として追討軍を指揮して、優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げ、仲麻呂は戦死します。地方豪族出身者としては破格の出世を遂げ、学者から立身して大臣にまでなったのも、近世以前では、真備と菅原道真のみです。
 
 また、刺しゅうや裁縫の技術を日本に伝えたとされる真備を祀っている大阪の天満宮では、2月の初め、針供養がおこなわれています。
 
 前に書きましたように、真備は、かの中国の囲碁名人に、阿部仲麻呂の助力で、1目勝ったわけですが、その仲麻呂は、日本の地を踏むことが叶わぬまま、唐で72歳の生涯を閉じます。真備が、囲碁の難局や他の試練を凌いだエピソードは、後の人が、2人の偉業と遺徳を偲んで絵巻にしたものと思われますが、仲麻呂・真備・鑑真たちの関わりや数奇な運命そのものが、人の世の一大絵巻なのかもしれません。

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