(7)碁のうた 碁のこころ


「囲碁エッセイ」(7)

「碁のうた 碁のこころ」 

         (執筆者:小山敏夫)






                                                       
秋山健司著『碁のうた 碁のこころ』(講談社)(2004)から一部借用して、囲碁に関わる「うた」を紹介します。秋山氏は、1946年生まれで、長いこと囲碁観戦記者として活躍されていますが、碁に関する古今の俳句・川柳・和歌(短歌)・詩、さらに中国の漢詩にも精通され、その内容の一部を「週刊碁」(日本棋院発行)に「碁のうた 碁のこころ」というタイトルで連載されてきましたが、その記事(200001)を一冊にまとめたものが『碁のうた 碁のこころ』(上図)です。
 出版が16年前ですが、囲碁の歴史を3000年とすれば、内容的には悠久の時間軸で考えてもいいと思います。その長い歴史を物語るように、「碁のうた 碁のこころ」には、意味(興味)深いものが多くあり、ほとんど孫引き(借用)ですが一部紹介していこうと思います。

 最初に紹介したいのは、幻庵因碩(17981859)の「囲碁妙伝」からの一節です。

囲碁須解(囲碁は須く解すべし)
局前無人(局前に人無く)
局上無石(局上に石無し)

「碁盤の前に相手はなく、盤上に石はない」という、禅の「空」的な心境を表現したものですが、この一節を故岩本薫氏が揮毫して、その色紙が、日本棋院対局室の「光雲の間」にかかっているそうです。このように雑念を離れて対局する心境になるには相当な熟達が必要でしょうが、実はこの因碩、囲碁の名家井上家を継いだあと、11歳上のライバル、本因坊丈和との涙ぐましいほど角逐が伝えられており、上の心境に達するまでには相当時間がかかったよう。

 次に気に入っている囲碁にまつわる和歌の紹介。

古里は見しごともあらず斧の柄の朽ちしところぞ恋しかりける(紀友則『古今集・雑歌下』所収)
 詞書きには、「筑紫にりけりときに、まかり通いつつ碁打ちける人のもとに、京にかえりまうできてつかはしける」と書かれている。本居宣長の解釈によれば、「ふるさとの京に久しぶりに戻ってみれば、何事も様変わりして、まるで知らないところに来たみたい。貴様と毎日のように碁を打って、憂き世のことを忘れて面白く暮らしたあの時と所が恋シウアルワイナ」となる。
 
 この和歌は、遣唐使がもたらした、囲碁の別称の一つ伝説に因むもの。爛柯伝説には、数種類あり、いろいろ異同があって、「木こりが山で仙人の碁を見ていて、気がついたら斧の柄がくさっていた」という話や、「晋の時代、王質という木こりが森の中で童子らの打つ碁を見ているうちに、斧の柯()が爛(くさ)ってしまうほどの時がたっていた」(『述異記』)話などが典型です。他の話でも、木こりと碁を打つ数人の童子が登場する場合が多いようです。要は、囲碁に夢中になって時のたつのを忘れる、転じて、遊びに夢中になって時のたつのを忘れることを意味しますが、碁を打っていると「親の死に目にも会えない」という状況と同じでしょうか。
 この歌を所収している『古今和歌集』は、延喜5(905)の勅撰和歌集で、その撰者は、紀貫之や紀友則らによって成立したもの。この二人は、三十六歌仙に名を連ねる従兄弟同士。従兄の友則は、897(寛平9)に(掾とは律令制で、国司の第三等官)に任ぜられ、任地では相当囲碁を楽しんでいたことがうかがえます。

  一方紀貫之は、延長8 (930) 、土佐守として赴任し、承平5 (935)に年帰京しますが、土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を、ジョークを交えて綴った『土佐日記』を出します。『土佐日記』は平安時代に成立した日記文学のひとつで、旅中の体験を、様々な歌を交えて書いており、「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」という書き出しはよく知られているところです。ただ日記には囲碁に纏わる記述はありません。



 
爛柯伝説に因む和歌をもう一つ。

斧の柄の朽ちし昔は遠けれど ありしにもあらぬ世をもふるかな
 鎌倉時代の初めの代表的な女流歌人、内親王の歌で、父の後白河法皇の嘆き悲しんだもの(『新古今和歌集』掲載)で、世の移り変わりの早さを朽ちた柄に託して表現し、後白河院の在世のころとは違った世の中に生きてゆかねばならぬ孤独の身のつらさをうたったもの。

 正岡子規と夏目漱石については前に触れましたが、相当な碁好きぶりだった芭蕉の連句から、碁に関する俳句を少し紹介します。元禄3年(1689)、『奥の細道』の旅の途中でも、芭蕉は弟子たちと連句興行を重ねていますが、彼は前句を引き継いで、当意即妙の碁の句を続けます。連句のうちの碁に関する句を挟んだ3句をあげますが、最初は、加賀の国での連句興行での一部。

月にの<曽良>
長き夜に碁をつづりるなつかしさ<翁>
に二人がかほる物ごし<>
 月を旅の友とする、乞食渡世の気楽さをうたう句の後に、月・長き夜・碁という連想の句を引き継いでいます。次に塵生が、「碁」と「なつかしさ」から、『源氏物語』の空蝉と空蝉の義理の娘・端が碁を打っている場面の連想へと発展させます。

 次は、貞享元年(1684)、尾張熱田での歌仙興行の3句。
一輪しの窓<東藤>
碁の工夫とぢたる目をて<翁>
周にかへると狐なくなり(桐葉)
「一輪咲し」の窓の外の光景を継いで、逆に窓の外から目を転じて、室内で碁を打つ風景の句に。「一輪」を受けて、碁の工夫で二日も目を閉じて長考(?)します。桐葉の受け句「周にかへると」は典拠が分からず、解釈が定まっていないようですが、人をだましたり、まどわせる狐の特性と碁との関わりがありそうです。
三つ目は、旅の途中の歌仙興行の一つ、発句は有名な「あなむざんやなの下のきりぎりす」の第212223句。

うつくしき仏を御所にりて<>
つづけてかちし囲碁の<翁>
かけて年のいそがしき<>
「うつくしき仏」の句から、仏の加護があったから碁の試合に勝てたと続けています。しかし、弟子が、年が暮れて、世間ではもちつきに忙しいんですよ、のんびり碁を打っている場合じゃないでしょとたしなめている句。これには師も兜を脱がざるをえないでしょうか。ともかく芭蕉さん、どこに行っても碁を楽しんでいたようです。

 最後に、前に書いた一世本因坊算砂の碁と将棋の心構えをしるした『囲碁之狂哥』から歌数種。内容は、「狂哥」ではなくわれわれには貴重な教えです。

を見かへる事はれ人のくもりをいふぞをかしき
上手とてあまりの恐るなよ又おそれぬもあしきなりけり
囲碁ハたゞとともと思ふ道のあしさよ
番数をほど後をしめてうてすこしも心ゆるしはしすな
みはかげにてずつとむれば面白き手をうつなり

 まだまだ紹介したい「うた」や、それに纏わるエピソードがたくさんありますが、紙数の関係で、余韻のある一句で筆をおきます。

碁を崩す  夏木立(嵐山:蕪村の高弟)(『続あけからす』所収)

以上が「天元会ニュース」に記載した囲碁に関するエッセイです(一部文言を変えています)。

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