(3)吉備真備と安倍仲麻呂


囲碁エッセイ(3)


「吉備真備と阿倍仲麻呂をめぐる碁のエピソード」

ウイキペディア
(執筆者:小山敏夫)


アメリのボストン美術館に、「吉備大臣入唐絵巻」という絵巻が保管されていて、2014年に再度里帰りして、「華麗なるジャポニスム展」で展示されました。その中の囲碁のエピソードが興味深かったので紹介します。
                                                          
この絵巻の成立は、平安時代後半の、12世紀末頃。絵巻の内容は、次に詳しく述べるように、遣唐使の吉備真備が在唐中に幽閉され、鬼となっていた阿倍仲麻呂に導かれて、皇帝による『文選』や囲碁による無理難題を解いて、無事に帰国に至るというものです。 元は全長24.521mにも及ぶ1巻の巻物だったようですが、昭和39年(1964年)東京オリンピック記念特別展で里帰りした際に、保存や展示の便宜をはかるため4巻に改装されています。


「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」

という歌は、養老元年(717)年に留学生として渡唐した遣唐使の阿倍仲麻呂が、30数年後帰国しようとして、送別の宴で詠んだものと言われています。しかし仲麻呂は、次のエッセイでも触れますが、帰国途次、嵐で遭難し、唐に戻り一生を終えますが、展示の内容は、この仲麻呂と同じ遣唐使の吉備真備をめぐる囲碁のエピソードです。
 この絵巻は、先ほど述べたように、日本の12世紀末から13世紀初めに作られたもので、院政期文化を代表する絵巻物の名品と言われています。内容は、遣唐使として唐に渡った吉備真備が、あまりに才能に溢れているので、危機感を持った唐人達が、真備を楼に幽閉して数々の難問を突きつけます。解けなければ殺されるという窮地に追いやられますが、同じように遣唐使として唐に渡っていた阿部仲麻呂の霊に助けられ、唐側の難問をうまく乗り越える、という筋書きです。そのうちの難問の一つが囲碁に纏わるものです。
  
 なお、史実では、次のエッセイ「吉備真備後日談」で述べるように、真備と仲麻呂は717年に共に入唐して、仲麻呂は唐に残留し、宝亀元年(770年)に唐で没し、真備の方は天平7年(735年)に帰国し、天平勝宝4年(752年)に再度入唐して、鑑真らと共に帰国しています。従って史実と説話の時期や内容は異なりますが、要は異国で、日本の才人2人が、見事なチームワークで困難を乗り越えたという説話に仕上がっているということです。
 
 さて難問の一つの囲碁の件ですが、唐側は、負けるはずのない唐一の囲碁名人を呼んで真備と対局させます。一方、囲碁のことを知らない真備は、閉じ込められた楼の格子状の天井を碁盤に見立てて仲麻呂の霊に稽古をつけてもらいます(日本への囲碁の紹介は、真備によるということになっていますが、奈良時代にも盛んに打たれていたようで、正倉院に碁盤「木画紫檀棊局」が収められています。また、遣唐使には「遣唐使碁師」という人員を設けるという決まりがあり、外交に囲碁は重視されていたようです。)
 
 唐一の名人との対局は、互いにしのぎを削る熱戦となります。そのうちに隙を見た真備は、相手の黒石をひとつ呑み込んでしまいます。相手はそれに気づかず対局は続けられましたが、結局、最後の一石を失った相手が負けとなります(因みに、互先のコミは、日本では6.5目なのに、中国は7.5目。日本ルールが地と取られた石を数えるのに対し、中国のルールは、地と盤上の生きている石を数えるルールで、勝敗は「地+残存石数」の和で決まることになっています。言いかえると、日本ルールはいかに大きな地を囲うかを競うゲームであり、一方、中国ルールはいかに多く自分の石を置くかを競うゲームで、地は自分の石だけが置ける領域という意味になり、昨年世界選手権で井山が半目負けた理由がこれらのルールの違いにあったのではと言われています)。
 
 負けるはずのない名人側は、不審に思って碁石の数を数えます。すると、黒が一つ足りない。さっそく占人を呼んで占わせると、卦には真備が碁石を飲み込んだと出ます。唐人たちは真備に詰め寄りますが、真備はしらばくれます。
 
 唐人たちはそれなら、と呵梨勒丸(ありろくがん)という下剤を飲ませて、排便の中から碁石を探し出そうとします。しかし、ここで真備は術を使い、碁石を腹の中に封印してしまいます。唐人たちは臭いのを我慢して排便の中を調べますが、結局見つからず、悔しい思いをして帰っていきます。(冒頭の絵巻は第六段で、右は吉備大臣と唐の囲碁名人との対局の場面です。中央は装束を脱がされて小袖(下着)姿で立つ吉備大臣。左は悪臭に顔をゆがめつつ下痢便を調べる唐人たち)
 以上が唐絵巻に描かれていた囲碁のエピソードですが、囲碁の勝負の後の難問も、仲麻呂の霊や日本の神仏の助けにより事なきを得ます。最後に唐側は真備を餓死させようと食料を止めますが、これも大魔術を使って難を逃れ、ようやく真備は釈放されて日本へ帰国する、という筋書きになっています。
 
 それ以降の阿部仲麻呂と吉備真備の生涯ですが、次のエッセイでも触れるように、在唐35年の阿部仲麻呂は753年帰国を図り先の歌を詠んだのですが、彼の乗った第1船は暴風雨のために唐の南方へ流され、結局755年に長安に帰国し、日本への帰国を断念します。そして、770173歳で生涯を終えています。
 
 一方真備のほうは、2度目の遣唐使として唐へ渡り(752-754)、 鑑真を伴って帰国し、大学制度改革、新しい暦の利用、漢音の普及に努め、阿部内親王の相談役を務めるなど政治的にも重要な役割を果たして、宝亀6年(775年)に没しています。享年83歳。
 
 真偽は別にして、もし真備が最初に囲碁を日本へ持ち帰ったとすると、遣唐使以来、囲碁が日中の政治・宗教・文化と深い関わりを持ちながら、1400年近くにわたって打ち続けられていることになります。

(1)囲碁の歴史と用語
(2)囲碁の神髄は調和にあり
(4)吉備真備の後日談
(5)真岡子規と囲碁
(6)囲碁のパワースポット 寂光寺
(7)碁のうた 碁のこころ
(8)しのぎを削るトップ棋士たち
(9)日本の囲碁界

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