(5)正岡子規と囲碁


「囲碁エッセイ」(5)


「正岡子規(1867~1902)と囲碁」

(執筆者:小山敏夫)
                                        
                     
2017年秋に、正岡子規の囲碁殿堂入りが発表され、さらには子規と夏目漱石(1867- 1916の生誕150周年の行事も多く行われ、囲碁や俳句を関心のある人にとっては記念すべき年でした。

 さらに、NHKの「囲碁フォーカス」の番組(2017123日)の内容と、「囲碁エッセイ」(7)で触れている、秋山賢司著、『碁のうた碁のこころ』2004年)の内容が重なっており、これらは、我が棋力向上のためにも参考になると思い、以下まとめてみました。

 まず子規の囲碁殿堂入りの話ですが、日本棋院は、20171024日、「囲碁殿堂表彰委員会」を開催し、子規の第14回囲碁殿堂入りを発表しています。その理由は、30以上(後で数句紹介しますが、全部で356句ある)の碁に関する俳句を残し、囲碁発展に寄与したためとなっており、生誕150周年を記念しての殿堂入りとなります。すでに、野球殿堂入り(2002年)をしていますから、子規は文武双方の殿堂に入ることになります。
 
 この囲碁殿堂の制度は、2004年に日本棋院創立80周年を記念して創設されたもので、今回の殿堂入りが第14回目となっています。『碁のうた碁のこころ』によれば、第1回の殿堂入りは4人で、そのうちの一人が、第一世本因坊算砂(さんさ・さんしゃ)(1559~1623)。次のエッセイ「囲碁のパワースポット寂光寺を訪ねて」で詳しく触れますが、算砂は、京都の名刹・寂光院の第二世で、僧名は日海。碁と将棋のナンバーワンとして、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康・秀忠らに仕えています。彼は、棋士の地位向上に尽力した巨人で、技術面でも算砂の時代にわが国の碁は大発展をとげ、幕府の庇護のもと、隆盛に向かったということです。
 
 日本棋院のホームページによれば、1124日の第14回囲碁殿堂表彰委員会で、有識者、マスコミ関係者、日本棋院役員、棋士で構成された表彰委員会委員の内、出席者8名により、事前にノミネートされた候補者(井上道節因碩、本因坊道知、本因坊察元、正岡子規、正力松太郎、高川格、坂田栄男、趙 南哲、藤沢秀行)の中から、投票で選出されたということ。また、囲碁殿堂入りを果たした正岡子規に対しては、顕彰レリーフを制作し、東京・市ケ谷の、日本棋院会館地下一階にある「囲碁殿堂資料館」にて展示を行う予定ということです。
 
 先ほど徳川家康の名前が出ましたが、驚くのは、彼も加えた過去の記念表象者の面々。第1回特別創設記念表彰者として、上記の本因坊算砂、そして、徳川家康、本因坊道策、本因坊秀策という名前があがっており、以降、13回まで錚々たる棋士の名前があがっています。最後の3回は、第11回表彰・橋本宇太郎、第12回表彰・呉清源、第13回表彰・寛蓮、井上幻庵因碩となっており、橋本宇太郎や、呉清源は馴染みの棋士。
 
 さて、子規に戻りますが、先ほど触れましたように、彼は囲碁を愛し、囲碁に関わる多くの漢詩や俳句、随筆などを残しています。幼少時に、松山藩の儒学者で、祖父の大原観山から囲碁の手ほどきを受けたと伝わっています。
 
 子規がこの世を去ったのは、1902(明治35)年919日、享年34歳ですが、彼の碁に関する名句は晩年のものが多いようです。彼は死を迎えるまで、結核性カリエスを患っての約7年間、病に臥せつつ、「子規庵」で『病牀六尺』を書き、その間にも碁を友とし、俳句を作っています。以下、彼の作った碁の関する俳句を数句紹介します。

 「涼しげに柿食ふは碁を知らざらん」(明治31年)
楽しそうに対局しているかたわらで、碁を知らず、座興に加われない気持ちを「涼しげ」で表現。子規の柿好きは有名で、元気な時は、一度に56個は食べるのが通例だったそうです。(「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の名句もある。)

 「碁に負けて忍ぶ恋路や春の雨」(明治32年)
亡くなる3年前の句。もう外出も不可能な時の、碁に負けた時の心情と、青年時代のある女性との恋路を忍ぶ心情を重ねた句。

 「真中に碁盤据ゑたる毛布かな」(明治33年)
病床の毛布の上に、風に飛ぶような紙の碁盤をおき、軽い土製の白黒の碁石を眺めている最晩年の句。

その他、写実性の中に、ちょっとユーモラスな、のびやかな、また、孤独の影がさす、碁にまつわる句を3句。

 「下手の碁の四隅かためる日永哉」
 「涼しさや雲に碁を打つ人二人」
 「昼人なし碁盤に桐の影動く」

 このように、子規は最晩年まで囲碁にも熱中した様子がうかがえるわけですが、松山市一番町の国指定重要文化財「萬翠荘(ばんすいそう)」の庭園には、子規と祖父の大原観山が碁盤を載せ、囲碁に興じたと伝わる庭石があり、庭石を望む東屋には碁盤と碁石が置かれています。

 そして、明治35918日の朝11時頃、妹の律に墨を磨らせた後、唐紙の貼り付けてある画板を持たせて、
 「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」
 「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」
 「をとゝひのへちまの水も取らざりき」
という、辞世の3句を残して翌日世を去ります。「へちま水」は、薬用として飲んでいたもので、もうそれすらままならぬ最期の句です。

 因みに、子規の棋力ですが、秋山さんは、『碁のうた碁のこころ』では、34段と書いていますが、NHKの番組では、「下手の碁の四隅かためる日永哉」という句や、対戦していた陸羯南(くがかつなん)(新聞『日本』社長で子規の後援者)の棋力から判断して、56級より下かなと言っています。また、大学予備門時代からの親友であった夏目漱石は、松山に教師として赴任している間も、療養生活中の正岡子を、下宿所(「愚陀仏庵」)に仮住まいをさせたり、何かと世話をしていますが、その漱石も、囲碁にはある程度の造詣があったようです。その松山時代を素材にした『我が輩は猫である』には、碁の知識なしには書けない対局場面が書かれています。(「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」という句は、療養生活の世話や奈良旅行を工面してくれた漱石の、「鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺」の句への返礼の句と言われています。)また、漱石は、明治35年の12月、留学中のロンドンから、畏友の死に目に会えない切ない心情を、「筒袖や秋の柩にしたがはず」(筒袖は洋服のこと)という句にして、高浜虚子に送っています。

 最後に、15日(2018)の梅田囲碁サロンでの打ち初め式で、井山裕太棋士と参加者が連碁を楽しんでいる時、「囲碁の日」を見計らってか、井山・羽生両名人の国民栄誉賞の決定の知らせが届き、皆さん拍手でお祝いをしました。初めて参加した私には貴重な体験でした。このように、おめでたい話が続きますが、嘆かわしきは筆者の棋力。諸先輩のご指導やご鞭撻をいただき、努力は人一倍と自負しているのですがいまだ報われず。下降すれば、次は上昇するという理を信じて頑張ります。

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